1.25.2015

ミシェル・ウエルベック「地図と領土」を読みましたよ!

2015-01-25
地図と領土」を読んだ。星3.4つ。期待値が非常に高かっただけに、案外とあっさりとした味付けに拍子抜けした。ウエルベック先生と言えば読者に対する嫌がらせのような性的露悪、シニカルさ、虚無さ、孤独さが売りなのだけれども「地図と領土」についてはかなり「標準的」な小説に落ち着いており、それ故だろうか、ゴングール賞(2010)である。


話の筋としては、若手芸術家ジェドの半生である。ウエルベック先生であるので、波瀾万丈な人生を、スリルあり、サスペンスあり、ロマンスあり、涙も笑いもある、というような、手に汗握ってワクワクして読むエンタメ小説ではない。
ウエルベック先生のこの世を見る目は、「素粒子」や「ある島の可能性」などから、一貫して「西洋文明の終焉」であろうか。神などはとうに死んでしまい、文明の礎である神でさえ今となってはポエムの一種として細々と消費されるものでしかなくなり、取って代わった機械文明は人を幸せにしない、資本主義は幸福度を上げない、かろうじて残されているかわいこちゃんのお尻という快楽の予感も非モテ中年男性という属性が粉砕する、というような、どうにもならない暗さ、全方位の孤独、西洋中年男性ペシミズムを露悪的に開陳・陳列することで世界文学のトップランナー、スターダム街道を突っ走るウエルベック先生であるが、今回の「地図と領土」ではその読者への嫌がらせ成分をほとんど排除して静かに、しみじみと文明の終焉を描いている。
バカと金持ちと投機家とスノッブとしたり顔とプライベート・ファンドなどの得体のしれない連中が寄ってたかって得体のしれない自称アート作品に投機的な値段をつける、すると、月とスッポンとラバーカップの見分けもつかないもっとバカでもっとカネを持った連中がどこからか沸いてきてもっとしたり顔をしてさらに値段を釣り上げてくれる、砂利の駐車場に石を捨てたらバカとしたり顔が沸いてきてそこに心象風景だの無との対話だのを見出した上に禅だの枯山水だのと「評価」しだす、相互フォローに相互ふぁぼで水増し、というような資本主義アート業界のマッチポンプによって若手芸術家であるジェドもまたそのマッチポンプに組み込まれていくことになるのだが、その半生を徹底した商業主義・資本主義ディテール描写で進行させていく。そして孤独を極めるジェドの友人候補として世捨て人・ウエルベック先生自身を小説の重要人物として配置させ、自らを「解体」させてみせるあたりにフランス的なエスプリを、そして大変なかわいこちゃん―といういかにもわざとらしい登場人物!―であるオルガの退場の扱いに、ウエルベック先生の諦観を、ジェドのアッパーカットが炸裂しても何も起こらない静けさに同時代性を感じた。
エピローグの淡々とした展開については、そこに希望を見出す事まではできないが、悪趣味な展開でもない。ギャンギャンとでかい声で終焉と孤独を唱えるのではなく、静かな絶望なのだろうか。再読が必要かもしれない。
素粒子」や「ある島の可能性」のインパクトを期待すると肩すかしを食らう。しかし、そこにより深化した世界観と見出だせるかもしれない。などと、バカとスノッブとしたり顔がありもしない「深化した世界観」を見出しちゃってゴングール賞を出しちゃう図、という罠をウエルベック先生が仕掛けたのかもしれないところが恐ろしい。少なくとも私の能力では、表面的なところまでしか読めない。やはり再読が必要だろう。




1冊だけ読むなら「素粒子」か「ある島の可能性」がオヌヌメ。重要作家だからひと通り読む場合の最初の1冊としては「素粒子」がオヌヌメ。「プラットフォーム」などは未読だから知らない。








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