12.23.2013

いい年こいた大人が時間を投資すべきクラシック入門10撰

挫折し続ける初心者のための最後のクラシック入門という記事を読んだ。素晴らしい記事であった。それならぼくちゃんもマネをして!と記事を書くことにした。


バッハのオルガン集のCDと、ブラームスのハンガリー舞曲のカセットテープばかりを聴いていた小学生時代から30年近くが経とうとしているが「クラシックを聴きたいので教えてほしい」と誰かに聞かれることは一度たりともなかった。それどころか、誰かから何かを聞かれることもほとんどなかった。年に1度くらい、路上で道を聞かれるくらいだった。


音楽を聴くことが好きならば、クラシックは一度は聴いてみようかと思うはずである。そして「初めてのクラシック」的なオムニバスに手を出すことになる。そうするとやはり、つまらん、ぬるい、意味不明、退屈、CMの曲だね、でおしまいである。そうなるのは当然である。あの手のCDは音楽の魅力を伝えるために存在するのではなく、右も左も分からない初心者からカネをむしり取るために存在している。つまらないのは当然である。「金閣寺」と「アンナ・カレーニナ」と「聖書」と「ユリシーズ」と「失われた時を求めて」と「しんぶん赤旗」の一部抜粋を1冊の薄い文庫に寄せ集めたものが面白いわけがない。



クラシックとは「時の試練」に淘汰されず今でも生きのこっているものだから、きちんと時間と労力を惜しまず投資すれば、それ以上のリターン(感動、喜び)を得られる。流行りものでもないから一生もの間違いなしである。
ただし、商業ベースの娯楽作品ではないから、理解するまでに時間がかかる。意味不明で退屈に聞こえるのは理解していないからである。人による好き嫌いはもちろんあり、楽曲を理解した上で「素晴らしい曲だが、嫌いだ」とか「素晴らしい曲だが、生理的に合わない」ということはある。しかし「意味不明で退屈だから嫌いだ」というのは単に理解していないだけである。



慣れない音楽だから聴きづらいと思うかもしれない。ダラダラ長く感じるかもしれない。しかしそれはダラダラ長いのではなく、真に大切なことを言う前によく黙思し、言葉を選び、息を吸い込んでいるのである。のべつまくなしにペラペラとうまいことしゃべればよいものではない。



音楽とは"作者の心の井戸の底でその闇━チラシの裏━を見せる"ものであるから、やはり聴き手も井戸の底に行く労力と時間を投資しないとなかなかリターンは得られない。クラシック音楽は聴き手を「お客様」扱いしてくれない。井戸の底をお客様のテーブルまで持ってきてくれない。自分の足で、時間をかけて、井戸を探して、井戸に潜るほかない(時には違う井戸に潜って失敗することすらある)
なんとかラーニングを聞き流しても英語がペラペラにならないのと同様に、BGMとして流しておくだけだと、おそらくずっとBGMのままであろう。映画を観るように、音楽を"聴く"時間を取らねばならない。確かに時間は貴重である。しかし時間と労力を惜しまなければ、一生ものになってくれる。



音楽史上入魂の大傑作をオススメすればそれでよいか、と言えばそうではなくてやはり聴きやすい、とっつきやすい、というものがある。いきなり「ニーベルングの指輪(演奏に4夜かかる)を聴けばよい、あれは最高だぞ」というわけにはいかない。
ここから厳選10枚のオススメを挙げるがいくつか条件をつけた。
  • 長すぎない
  • 短すぎない(ボリュームも欲しい)
  • 一生もの
  • 難解すぎない。入門向け。
  • オペラを挙げない(音楽と物語の感動を混同しやすい)
  • 本題から外れるので演奏者についてはグダグダ言わない
  • グダグダ言わないがもちろん演奏者も厳選
  • 有名どころに限らない
  • 聴き手は大人1名を想定。「カップルでほっこり聴く」というのは知らん。よそへ行け。
  • 子供の情操教育ならモーツァルト一択。よそへ行け。



以下アマゾンリンク先に試聴あり。


1枚目はJ.S.Bachであろう。バッハ。ドイツ。音楽の父と言われるけれども、音楽史からはいったん消えかかった。死後80年ほどしてから"再発見"され、名声が高まり続け現在では最高評価。
バッハにはBWV582(YouTubeリンク)のようなオルガン曲や"シャコンヌ(YouTubeリンク)"みたいな超絶名曲があってそれらを挙げるべきか、あるいはバッハの精髄であるマタイ・ヨハネ受難曲を挙げるべきか、とも思ったけれども、それだけだとボリュームが不足したり、逆に長すぎたりで帯に短したすきに長し。
そこで挙げたいのがゴールドベルク変奏曲である。演奏は1981年のGlenn Gouldで。人生で一番聴いたディスクかもしれない。派手さはないが、聴くたびに新しい発見があり、感動がある。この演奏は人類最高のうちの1枚。
どうせ眠れない夜ならば、いっそ開き直ってもう寝ないことにした。夜が明けるまで最高の音楽を聴き続ければいいじゃないか









2枚目は天才と表現されることの多いモーツァルトのレクイエム。最晩年の作品。モーツァルトの音楽はヒトが書いたとは思えない。神が書かせたとしか。「神の存在」を信じたくなる。
私はモーツァルトを理解するのに10年かかったが、この曲だけはなじみやすかった。派手な音響なので比較的ハードルは低い。モーツァルトの場合、どの曲を聴いても天上的な美しさで金太郎飴みたいに傑作ぞろいだが、この曲はちょっと異質かもしれない。演奏はオーソドックスにベームで。








3枚目もモーツァルト、ピアノ協奏曲第23番&第26番で。モーツァルトはどうしても1枚には絞れなかった。神が書かせたとしか思えない、天上的美しさ。
カリッとした第一楽章、第三楽章に挟まれた緩い第二楽章、というサンドイッチ構造もメリハリが効いていてよい。バッハ、モーツァルトはいちいちオススメする理由をクドクドしなくてよいだろう。最高に決まっている。演奏も素晴らしい。
子供の情操教育にも最適な一枚。入門に無難な選択






4枚目は最も偉大な音楽家、ベートーヴェンの交響曲第9番である。ドイツ。演奏はフルトヴェングラーの1951年バイロイト版。録音が古く音質が悪いが、それでもこれが今なおNo.1である。100年に一度あるかないか、というレベルの真に偉大な演奏。
ベートーヴェンは失聴者ながら不屈の精神で…といった伝記的偉大さもあるが、それ以上の偉人である。それまで音楽とは、神に捧げる教会音楽か、貴族サロンのBGMにすぎなかったもの━「おい君、私のかっこよさを表現した曲をつくりたまえ、いけてるやつをな?ご婦人がたにモテモテでニタニタのやつをな?わかるな?それを今度のパーティで弾いてくれたまえ」━だった。貴族の調度品に過ぎなかったものを音楽として独立させ、理念、理想、チラシの裏を思い切り練りこんで芸術の域に高めたブレイクスルー者。現在でも音楽王である。
「第九」だと有名すぎる合唱部分があって、あれを"サビ"と勘違すると非常に退屈な曲になりがちという落とし穴があるが、本記事は「いい年こいた大人が時間と労力を投資して作品を味わう」ことを前提にしているのだから、ある程度の忍耐を期待してやはりこれであろう。最も素晴らしい曲を、最も素晴らしい演奏で。遠回りする必要はない。最初から最後まで完璧。もうすごすぎて三国志で言うところの呂布である。
「呂布だ…呂布が来たぞ!」

(ベートーヴェンの映画も大変よい)







5枚目はロシアのメロディ・メーカー、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」である。演奏は端正なカラヤンで(もし曲を気に入ったらネットリしたチェリビダッケもオススメ)
題名の通り、明るく元気で前向きな曲ではない。それどころか史上屈指の暗さを誇る。毛が抜けるほど暗い。しかし暗く悲しいだけでなく極めて美しい。甘美ですらある。作者本人も最高作と自認。そして初演後に謎の急死…。
精神病院の入院患者に各種音楽を聞かせる実験の結果、この曲を聴かせると病状が著しく悪化し自殺を企てる者も出た(事実)、とか、この曲を熱演した指揮者が曲想のあまりの悲しさに演奏直後にピストル自殺をした(伝説)、等のすごい話がある曲。"作者の心の井戸の底"に入り込みすぎると病むかもしれない。
メロディが美しく、感情的な音楽なので聴きやすいはず。
浪人時代はこれをCDウォークマンでヘビーローテーションして池袋の自習室で勉強していた。その結果、二流大学に合格した。
「私はこの曲を書きながら、何度も何度も激しく泣いた」







6枚目もドイツ。ブラームスの交響曲第1番である。既にベートーヴェンが偉大な交響曲を書いてしまったから、その後の作曲家は大変である。ブラームスもその一人。作っては破棄、作っては破棄を繰り返し、少しずつ形を作っていき推敲に推敲を重ね、20年以上の歳月を費やしてようやくできたのがブラームスの1番である。驚異的な完成度を誇り、ベートーヴェンの10番と呼ばれることも。最初から最後までひたすら渋い。ひたすらに男が渋い。曲は暗く重くはじまるが最後は華やかに締められる。「暗→明」「闇→光」という様式美。己の力で苦しい運命を切り開き、打ち勝ち、何も語らず黙って去っていく。男の理想である。あまりの男の渋さに、カーキ色のトレンチコートが欲しくなる。男は黙ってブラームス。飾りはいらない。真田広之みたいに渋い男は間違いなくブラームスを聴いているし、ブラームスを聴かない男はいい年こいてもパッパラパーである。演奏はバーンスタインで。カップリングされているなんとか序曲は聴いてもよいが、無視してもよい。
「強くなければ生きていけない。やさしくなければ生きている資格がない。」






7枚目は悩んだ。バランスよくフランス系を挙げるべきじゃないかと…。ショパン、ドビュッシー、ラヴェル、フォーレ、サティ…。
フランス系は確かにオシャレな響きで美しいが、果たしていい年こいた大人がシリアスな音楽体験を求める時に聴くべきものだろうか?
個人的な偏見に基づく体験を述べると、ラヴェルだとかショパンを聴き、その井戸の底に潜り込みチラシの裏を読んでみたが、そこには若くてかわいい音楽好きの女の子をいかにうまいことひっかけていかにうまいことしっぽりするためのハウツーと、露骨な四十八手しか書いてなかった。若くてかわいい女の子との話題にはショパンとドビュッシーは最高である。ノクターン、いいよね、ラ・メール、好きなんだ、等。
このブログの読者はいい年のおじさんである。そして筆者もいい年のおじさんである。おじさんが書いておじさんが読むものである。人生の岐路に立ち、人生を振り返り、そしてこの先を眺め、シリアスな音楽体験をして人生の充実を図ろうという時、どうしてそんなハウツーを読まねばならない?若いならまだしも?
そういうわけで、バランスを欠いてもよいからフランス系は挙げない。7枚目はオーストリアからブルックナーの交響曲第8番である。すごい。フランス系を挙げる代わりにブルックナーである。「ローマの休日」を期待したら「ブラックホーク・ダウン」だった、というこの感じ。おしゃれなフレンチ・レストランを期待してたのに特盛牛丼弁当を吉野家駐車場で食べることになったこの感じ。満腹になって大変よい。演奏は鉄板のヴァントだが少し高い。ベームの方が安い
生涯独身で童帝説もあるブルックナーである。敬虔なクリスチャンであるが、いい年こいた大人になっても多くの若い娘に求婚してはキモイと断られ続けたブルックナーである。この人は必須である。この人をおいて他にいようか?
19世紀後半の活躍で、時代的にもだいぶ新しくなってきた。ベートーヴェンが先鞭をつけた"チラシの裏を練りこんだ芸術音楽"も熟成し、爛熟し、飽和しはじめ、崩壊の予感が漂い出した頃である。発展を続けてきた西洋音楽は、このころの果実が一番おいしい時期だったかもしれない。若干曲が長く、重量級で、入門向けとは言い難い面もあるかもしれないが、せっかくいい年こいた大人が時間を投資するのだから、その投資に見合うものでなければならない。リターンは大きい。
音楽は大規模にして壮大。曲想もダイナミックレンジも限りなく広大。果てしなく巨大な音楽である。聴く際のポイントとしては太鼓とラッパが鳴っているところが聴きどころで、それ以外の部分は、太鼓とラッパを鳴らすための準備・助走区間。真に偉大な響きを出すには、入念で美しい準備があってこそ。この8番はブルックナー円熟の大傑作でクラシック音楽全体でもトップクラスの評価を受けている。全楽章が文句なくすばらしく、極めて輝かしく終結する。終結部が素晴らしいと、全体が素晴らしく思えるので未完の9番より8番がオススメ。








8枚目はマーラーの交響曲第2番「復活」。19世紀後半から20世紀初頭の活躍で、発展に次ぐ発展、拡大に次ぐ拡大を遂げた西洋音楽史のひとつの極致。この先、音楽は崩壊する。音楽的にはドイツ・オーストリア系だが、アイデンティティ的に根無し草となりがちで、寄る辺ない感じが作風にも表れている。
現在でこそクラシック音楽界ではメイン・レパートリーで大人気のマーラーであるが、再評価されたのは1960年あたりから。それまでは作曲家ではなくて指揮者として有名だった。その不安で病的で破滅的な作風から存命当時は作曲家としては成功しなかったが「やがて私の時代が来る」と言い残し、見事的中。不安で病的で破滅的な予言は、現代そのままである。蛇口をひねれば水が出て、ボタンを押せば温風が出て、子供の死亡率は低く、指先を動かすと地球の裏側の情報が飛び込んでくる。そんな豊かな時代になり、どこでも誰とでもつながることができるが、人間の孤独は深まるばかりであり、心の病気は進行し、薬の量が増え、不安で眠れず、酒に頼らねば生きていることに耐えられない。それが現代である。マーラーが現代にマッチするのは当然である。
入門としては6番とどちらを挙げるか悩んだが、合唱も入り音響的にも終結部も派手な交響曲第2番「復活」で。演奏は第一人者のバーンスタイン。まだ若い頃の作品なので、現代性は若干控え目で入門向け。慣れたら後期作品も聴くべき。





9枚目はショスタコーヴィチの交響曲第5番。1906年生、1975年没。20世紀ソヴィエト・ロシアである。
まだ若い頃にピアニストとしても作曲家としても高い評価を受け、ニコニコして自分の書きたいように"芸術音楽"を作曲をしていたところ、スターリンに目をつけられて、機関紙で批判されるに至ってしまった。スターリンに批判されるというのは、銃殺刑と同義である。ショスタコーヴィチの周辺人物も次々と銃殺されていったことから、これはマズイ、ということになって慌てて作ったのが交響曲第5番である。そのように、状況が非常に切迫してきたため、自由に書いてしまった4番は初演直前に撤回・中止である。発表していたら銃殺刑執行間違いなしだった。
ド迫力の大音響でソヴィエト社会主義の勝利を称えたように聞こえもする第5番の初演では会場からすすり泣き(第三楽章の美しさといったら…)やら割れんばかりの大拍手が起きて大成功した。スターリンもニコニコし、死刑を免れてそのまま寿命まで生きることができた。その後、あまりにも、あまりにも暗い作品群を書いた。この第5番の成功が西側にも聞こえて名声が高まったこともあり、その後の怪しい作品群があっても容易には銃殺できなかったのだろう(それでも特にやばいのは発表せず楽譜を隠した)
この曲をただ漠然と聴いていると、出来のいい、カッコいい、パワフルで、派手な交響曲に聞こえるが、果たしてそんな表面的で、単純なものだろうか…?そんなはずはない…。だんだんと息が詰ってきて胸が苦しくなるこの感じ…尋常でないのだが…。
きちんと井戸の底に潜り込んでそのチラシの裏を読むと…黒塗りで読めない…。チラシの裏に、何か激しい筆跡で書いてあるが…。いったいなんと…。赤黒いしみのついたチラシの裏はただならぬ雰囲気だが、黒く塗られていて読めない…。ショスタコーヴィチ自身による黒塗りである…。おそろしあ…。
本当に笑っているなら、黒塗りをする必要はない。本当に喜んでいるなら、黒塗りする必要はない。しかし何を書いてあるかは読めない。読んでもらっては困る。読んだ者も、読まれた者も、銃殺刑だ。
強いものには頭をさげ、理不尽な上司にはごまをすり、お客様という名のクレーマーには最高の笑顔をつくり生きながらえている。ひとりになり中央・総武線のホームのはじっこでふと思う。私は今どんな表情なのだろう…?分からない…。
自分自身の心もブラックボックス化しなければ生きていけない。私自身を、黒塗りせねばならない…。鏡に映りこちらを見つめている人はいったい誰だろう?
おそるべき現代性である。

君は笑っているように見えるが、それは本当の笑顔かね?それとも張り付いてとれない笑顔かね?







最後の10枚目はペルトのタブラ・ラサ。1935年、エストニア生まれで存命。これを紹介したいがために長々と記事を書いた
マーラーの後、ショスタコーヴィチと同時代に「西側」音楽界では大崩壊が起きた。前衛の嵐が吹き荒れて、破壊の限りが尽くされ、いわゆる「音楽」は絶滅した。音楽の根本部分の和音システムが破壊され、不協和音と不快なトーン・クラスターだけになった。もちろんその前衛音楽の中にも聴くべきものはあるが、いわゆる「音楽」との断絶は計り知れない。
前衛の嵐の果ては「演奏者が会場に入り、巨大な屁をする(or 蝶を放つ、等)。観客はどよめく。演奏者は去る」のが演目であり、そのどよめきサウンドが新しい時代の音楽だ、といった具合である。
破壊の限りが尽くされ、全てが燃やされ、高濃度放射性物質が撒かれて世界は完全に滅んだ。その後の世界にひっそりと生えてきた植物のような何かがこの作品集である。
簡素、純粋、静謐でありながらとらえどころがなく、前世界から生まれたものではないのに、前世界との断絶(名残)は感じさせる。これまでのどんな音楽にも似ていないが、その音楽体験は第一級で「言葉を失うほどの美しさ」という言葉でしか表現できない。プリペアド・ピアノのこの世のものとは思えない美しい響きが、あらゆる記憶を消去していくようである。全てが消去されても、まだ光は残っている。
新しい音楽で狭義のクラシックには入らないが、時が経てば必ずクラシックになる、という確信がある。簡素な響きで予備知識も要らず入門向けでもある。
マンフレート・アイヒャーによって集められた演奏陣の顔ぶれのすごさも含めてこの一枚は奇跡である。知名度はそれほど高くなく、クラシック畑の人でも未聴かもしれない。そういう人にこそ。




冒頭リンク記事のように品性と知性あふれる人とは違って、私にはきちんとした音楽の知識がなく、スラム街生まれで育ちが悪く、無能低知性であるが、そんな人間でもクラシック音楽はある程度理解でき、音楽体験を得られる。クラシック音楽は選ばれた人だけのものではない。音楽は心の支えにもなり人生を豊かにすることは間違いないので、貴重な時間を投資する価値がある。


それと、クラシック音楽を聴く時は、できるだけ部屋を暗くするとよい。これから音楽を理解しようというとき、視覚情報にはあまり意味がない。視覚情報は時に気が散って有害ですらある。YouTubeを見て「へえ、こんな風に演奏するんだ」という楽しみ方もあるが、まずは曲を理解しないことにははじまらない。
また、遮音性の高いイヤホン/ヘッドホンをする、音のする機械を止めるなど、音楽に集中できる環境にすると理解が進みやすい。音が小さいところだとエアコンやパソコンの音がうるさかったりしていけないので。
クラシックは一定以上の再生装置でないとまともに聞こえない。オーディオにこだわる必要はないが、多少の投資がいることも確か。再生装置がイヤホンならiPhoneで十分(ヘッドホンだとiPhoneのパワーが足りずによく鳴らない)だが、イヤホンがチープだとまともに鳴らない。個人的にはiPhoneについてくるEarPodsが最低許容ラインを下回ってダメな感じ。流し聞きならEarPodsで十分だけれども、観賞用にはオススメできない。ヘタなスピーカーよりはイヤホン/ヘッドホンの方が音は良い。イヤホン/ヘッドホンの方が安いし。遮音性も音質も評価の高いEtymotic Research社の安いやつでよいと思う。

6 件のコメント:

  1. いつもながら圧巻ですね。クラシックピアノ経験者(結構長くやってました・・)ながら全く何も知らず恥ずかしいです。初心者として勉強させて貰います。最後のオーディオのお話(最も言いたいこと?!)、知りませんでした。クラシックの趣味の方は立派なオーディオを持っている理由はそういう事だったのですね。なるほどです。

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    1. 経験者なんですか、いいですね。
      クラシックはチープな再生装置だとダメなんですよ。安い装置は歌謡曲の人声域さえ聞こえればいいって設計ですから…。
      クラシックの場合、人声域どころかCDにもおさまりきらないダイナミックレンジの大きさですので、それなりによい装置でないとダメだと思います。ある程度曲が分かっていれば安い装置で聞いても脳内で補完することができますが、これから聴くって場合にはやはり…。

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  2. 仕事中はソロピアノかバロックをInternet Radioで聞いています。
    どうもロックとかポップなどのシャカシャカした音は仕事中は聞いていられない。
    おまけにストレスの多い仕事なので気持ちを鎮めるためにもクラッシックばかりになります。

    しかし、ボクはゆうさんのように知識もこだわりも無いので
    ただ流れる曲を聞き流すだけ、作曲や演奏が誰なのか知りません。
    初めて聞きましたがタブラ・ラサ良いですね。

    ご指摘の前衛音楽とはジョン・ケージの4分33秒のことでしょうか?

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    1. バロックとかモーツァルトあたりまでは劇的だったり感情的じゃないのでBGMとしてイイですよね。

      タブラ・ラサはいいですよ!時間を取ってじっくり聞くのはなかなか難しいですけど、1時間作れた時に部屋を暗くして聴くとよい1時間になると思います。

      4:33に代表されるような「不確定性の音楽」を皮肉ったんですけど、ケージは理論的にはカッコイイこと言ってるんですよね。カネを出して聞きたいとは全く思いませんが、その「説法」は聞く価値があります…かね…。

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    2. バッハ先生って延々と続く繰り返しじゃないですか。ww
      作業中にはとても心地良いのですよ。
      たまに眠りに誘ってくれますが…。

      Arvo Pärtの曲を何曲か聞いてみましたがバッハに近い気がします。
      薄い絹の布が徐々に重なってくるような楽曲。
      モーツァルトの様な華やかさはないのですが静かな夜に聴きたいですね。

      ケージの時代って既成概念からの開放を模索していた時代じゃないですか?
      絵画やデザインの世界でもそうだけれど、人がやらないことをやって
      破壊して一巡してまた戻ってくるような気がするのですよ。

      横尾忠則が「今一番欲しいのは技術」と言っています。
      あれだけ既成の美から離れようとしていたアーティストが
      戻ってきたのが「技術」だというのは面白いなと思いました。

      ケージが無響室での体験から4分33秒を作曲したのなら
      無音で聞こえる空間の音を演出する方法があると思うですが
      演出する時点で無為の音楽を目指した彼の方向性は違ってくるのだろうな。

      言っていることは哲学的ですが、ボクは金を出してまでコンサートには行かない。
      ケージ先生は有名になっても生活は貧しかったらしい。
      音楽家というより思想家として講演したほうが金は稼げたのではないかと思います。
      それともキノコ専門家かな?

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    3. さすが、洞察が深くていらっしゃいます。ペルトは前衛に嫌気がさしてバッハ以前の古楽と宗教に回帰してから今の作風になったみたいです。前衛理論の世界から古楽と宗教ってところがまたイイですね。

      アメリカではケージ先生が大活躍でヨーロッパの手垢のついた系譜からも外れて、禅とかそのあたりもミックスされてカッコイイですが、いわゆる「音楽」として楽しむには厳しいですね。思考実験というか思想としては大変ありがたく拝読できるんですが…。
      あ、キノコ専門家として有名だったんですね。初めて知りました(笑)
      やっぱりアメリカではビッグ・ネームなんでしょうね。

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